それでは、こんにちはです。
シェリルです。
みなさま(ありがとう)、
さくらももこさんの、
訃報に際しまして、
心から、あたくしが、
ご冥福をお祈りします。
ありがとうございました。
「ちびまる子ちゃん」
の、ファンのかたがた、
本当に、淋しいですね。
ありがとうございます。
あたしも、いろいろ思いますが、
物語というのは、
いつか作家の手を超え、
さまざまなかたの、
空想でない、人生という名の、
物語の中で、生き続ける、
リアリティだと、信じています。
人生は、ありがとうと、
さようならの繰り返しです。
あたしは、あんまり、
公表もされてなかったそうですし、
彼女の、姿かたちを、見たことがないですね。
で、意外と、イラストと違って、
丸くない、淋しげな、彼女に気づきました。
この世、世界には、
いろいろな万物のルールがあります。
彼女のような、パターンのひとは、
なかなか、生きにくいのです。
それで、かつ、彼女は、
ブラックジョークが、つい、
書いてしまう、すこし、
制御性の、悪いほうだったりする、
なんか、ついてないところがあったりします。
本質的に、
人間は、
人間のぶざまな行動パターンを、見て、
「こっちが本当だよね」
とする癖は、
ありません。
先日、一回久しぶりに、
「ちびまる子ちゃん」を、
見たのです。
で、そこで、ふと、
気まずい気持ちになりました。
こんなん、人間の錯覚に違いない。
彼女は、幼いころ、
あんな悲しい事件に包まれた、
小学3年生だったんだろうか、と。
自分と、まる子は、性格は違うんでしょうね。
本当は、人間の、間違えやすい、
愚かなスポットを見て、
泣いている、やさしいひとだったんだろうなあ、と、
だから、彼女の作品は、好かれたのだろう、と、
書き連ねた、話に、納得が行きました。
人間は、愚かではありません。
ぶざまではありません。
そんなこと、回りのかたは、
幼い日、戦っていたのでしょうか。
静岡では何が、昭和40年代に、あったのでしょうか。
「これをでたらめだと言って」
と、書いた、ブラック過ぎるエピソードたちに、
困惑しながら、涙を浮かべる、自分に気づけました。
それにしたって、
そういう、悲しみを、
テレビアニメは、有しているでしょうか。
かわいい、そういう話ではないです。
ちょっとひっかかりました。
正直、誰かのパイオニア的な、
バランス感覚を、
気づけない普通は、あると思います。
うん、プロットなあ。
また、ぜひ日曜日に、
変更された番組内容も、見て、
ご報告します。
先生がいなくなってしまっても、
テレビの中の、箱の中の彼女が、
すぐいなくなることはありません。
けれど、彼女の分身であった彼女の、
悲しいだけの日常生活の物語を、
まず、もっと、気づいてほしいのです。
人間は、記憶から消えたときに、
本当の終わりを迎えるといいます。
だからと言って、誰かの日々を、
誰もが忘れることなど、あろうはずも、ありません。
あなたの中に、いま、
あの悲しい女の子がいるのなら、
どうぞ、そこを飛躍し、
彼女が鳥のように、
はばたけるように、
想像を膨らませて、あげてほしいのです。
なぜ、どのように、すれば、
ひとはひとになれる。
そこを、たぶん彼女は、模索したと思います。
昭和は、21世紀の新人さんたち、
すごくつらい、悲しみの日々でしたよ。
この先の未来へも、
いつも、本質を握りしめて、
間違えることなく、
間違えたらこうなるんだと、いう、
センチメンタルでもなんでもない、
リビドーを、抱えて、
フラストショックで、泣きながら、
歩いてきた、轍を、
あなたにも、わかってもらいたいのです。